100年のあゆみ
History
Thank you for 100 years
木内建設株式会社は、おかげさまで2021年に100周年を迎えることができました。
1921年に創業してから、
私たちは真面目で誠実、真摯にお客さまと向き合うことを大切にしてきました。
この100年、たくさんの挑戦や成長がありましたが、
何よりもお客様との信頼関係を築きながらここまで来ることができたことが、私たちの誇りです。
これからも「お客様の笑顔が私たちの力」という思いを大切にし、
さらに安心で信頼いただける会社を目指していきます。
地域の皆さま、そしてこれから出会うお客様と共に、未来を作り上げていけることを楽しみにしています。
1921
木内組創業
笠井組で積み重ねた経験と実績をもとに、木内藤定は木内組を創業。静岡の近代建築を担った
創業者 木内 藤定
- 1889 (明治22)
- 山梨県西八代郡栄村生まれ(現在の山梨県南巨摩郡南部町)
- 1902(明治35)
-
笠井組で丁稚奉公を始める
- 1905(明治38)
- 大工見習いを始める
- 1907(明治40)
-
修行のため御殿場、東京を転々とする
東京勧業博覧会や国会議員の邸宅の仕事に関わる
- 1911(明治44)
- 見習期間が終わり、笠井組の世話役となる
- 1921(大正10)
- 木内組を創業する
- 1944(昭和19)
- 静清建築工業株式会社を設立、初代社長に就任
- 1971(昭和46)
- 勲六等単光旭日章を受章
逝去
1921年 (大正10)
木内組として一般土木建築請負業を創業
木内組の実績
1924 横田岩崎平太郎邸
1925 安西尾崎邸
1926 安東岩崎邸
1927 教職員組合住宅10棟
1928
ヘリヤ商会茶工場
(第1・第2工場・事務所)
1929 弥勒宮崎通之助邸
1930 三吉野旅館、河村様本宅
1931 BA商会茶工場
1932 宮崎清水倉庫、天野回漕店倉庫、 鞍智邸、杉山洋裁学院
1933 大坪田園住宅20棟、鶴岡旅館
1935 静岡バラ園文化住宅30棟
1936 藤枝明治製菓工場
1937 理化学研究所電化工場
1941 台湾理化学研究所
1942 日本茶業組合倉庫
1944 東京理研袋井工場
1944
木内建設の発展
戦時統制下での苦しい会社設立生コンや土木事業に進出し、戦後復興に貢献した
1940
静岡大火
1944
静清建築工業株式会社 設立
木内藤定 社長就任
1949
RC造 静岡県営住宅
初のRC工法。社長自ら陣頭指揮を執り、社の総力を注入した
1950
静清建設株式会社に社名変更
土木工事に進出
初工事は河川の災害復旧。崩落した橋脚の撤去にダイナマイトを使用。山間に響く爆発音が開始合図となった
1955
木内建設株式会社に社名変更
1963
社内報『 きづき』 創刊
社訓制定「 工夫・親切・感謝」
1964
東京オリンピック 開催
1965
本社を国吉田に新築移転
1966
藤枝工場プラント 開設
東名高速道路静岡インターチェンジ (1966)
1967
RC大型工事を手掛ける
静岡刑務所(1967)
1973
冬の時代を乗り越える
オイルショックで冷え込む建設業界PC工法をはじめとする創意工夫で苦境を克服した
1970
戸建 木内PCハウス 販売開始
朝霧ボウル(1971)
1972
ニクソンショック
1973
オイルショック
木内武司社長 就任
都営住宅46H-1001(中央本町四丁目)(1973)
静清中央卸売市場施設整備事業舗装工事(1975)
1976
厚木市立萩野小学校(1977)
1978
木内武司
静岡県建設業協会 副会長に就任
市民文化会館(1978)
1979
創立35周年
ライブアピタ(1979)
静岡県警察本部庁舎及び中央警察署庁舎(1980)
1985
プラザ合意 日本はバブル期へ
コンホーム1万戸販売達成
CAD導入
那賀川ゴルフクラブ(1985)
浜岡コースクラブハウス(1985)
1988
木内コンホームCM放映
1989
バブル崩壊からの再生
日本経済を揺るがしたバブル崩壊
グループ会社、協力業者が連携し、新技術へ挑戦を続けた
1990
木内藤男 社長就任
平成元年度 二級河川巴川
( 大谷川放水路工区)
特定河川工事第2工区(1990)
1992
静岡市立看護専門学校(1992)
1994
木内建設記念奨学金 創設
改善提案表彰 開始
木内武司 勲五等瑞宝章 受章
会社設立50周年記念式典
(日本平ホテル)
初の制震構造
テレビ静岡メディアシティビル
榛原町庁舎(1994)
ホテルラヴィエ川良(1994)
1995
Windows95発売
写真もフィルムからデジタルの時代に
1998
ISO9001取得
木内武司 勲五等瑞宝章 受章
社訓「信頼・努力・創造」
焼津市消防防災センター訓練施設(1999)
静岡雙葉学園校舎(2000)
2001
ISO14001 取得
パラマウントヘッド(2001)
2003
富士市吉原事故
安全管理室 設置
2004
第一次中期経営計画スタート
2005
高強度コンクリート
国土交通大臣認定
静岡駅北口駅前広場(2007)
静岡駅北口駅前広場大屋根(2008)
2011
木内藤男社長 黄綬褒章受章
三菱地所レジデンス株式会社
優良施工会社表彰 受賞
2011年より連続して受賞
中部横断自動車道 吉原ジャンクション 北工事(2012)
春華堂グループ厚生施設(2012)
USS-R 名古屋会場(2013)
2015
BIM導入
コアレックス信栄本社工場(2015)
富士宮市立学校給食センター(2016)
2017
優良職長認定制度 導入
平成28年度 由比大押道路 東部地区整備工事(2018)
プラウド大倉山サウスコート(2018)
ザ・パークハウス東陽町翠賓閣(2019)
聖隷クリストファー小学校(2019)
特別養護老人ホーム守山愛の里(2019)
2020
木内藤男社長 旭日小綬章受章
木内藤丈 社長就任
支持装置 及び 支持ユニット特許取得
令和2年度 富士海岸蒲原工区離岸堤工事(2021)
裾野市長泉町新火葬施設(2021)
2021
創業100周年
2022
次の100年へ
幼少時代
母 みな
明治22年万吉との間に藤定を授かったが、藤定が5歳の時に病死。
父 万吉
栄村の指導的な役割にあり、藤定が12歳の時、工事中に死亡。
修行時代
木内 藤定
小柄で不器用だった藤定は、兄弟子たちから嘲笑されていた。田中伝次郎のアドバイスに一念発起し、東京へ武者修行。奉公明けには一人前の大工として笠井組の世話役に抜擢される。
兄弟子A
「あんな不器用なやつ、 とても大工にゃなれねえ」
兄弟子B
「もし一人前の大工になれたら、逆立ちして町内を歩いて見せてやる」
田中 伝次郎
笠井勝治郎が慕う鉄工所の親方。「何事も忍耐と努力だ。大工の修行は大工で貫け。不器用で立派な職人になれないと思ったら、立派な職人を使う親方になれ」と、藤定に忠告。
笠井 勝治郎
静岡の大工の棟梁。栄村出身という縁で13歳の藤定を預かる。奉公明けの藤定を重用し、笠井組の世話役を任せる。
働く装いの軌跡と未来
法被
1955 –
木内建設株式会社として、初めて作製された衣服は“法被”であった。濃い藍色のしっかりした生地で、表の襟には「木内建設株式会社」、背にはロゴマーク「」を白字であしらったデザインが施されている。用途としては、大きな物件や特別な物件の上棟式など祝いの席で着用していたと思われる。
作業着
??- 1976(推定)
実物や写真は残っていないが、おおよそ1960年代から1970年代にかけて、グレー色の作業着が配布されていた。当時在籍していた社員によると、会社オリジナルの衣服ではなく、市販の作業着だったようだ。その着心地はゴワゴワしていて、あまり快適では無かった※とのことである。その後、ユニフォームが誕生してからも、関連会社ではこの作業着を着用していた。
ユニフォーム 第一弾
1976(推定)– 1992
1976年ごろ、木内建設にとって初めてのオリジナルユニフォーム( 作業着) が誕生した。ラインナップは長袖シャツ・半袖シャツ・上着・ジャンバー・ズボンで、すべて薄茶色で統一されたデザインである。胸元には社名とロゴマーク「」がオレンジ色の糸で刺繍されている。このユニフォームを着用していた期間は16 年ほどと短いが、静岡県内外の大型物件に携わるなど木内建設が大きく成長した時期と重なる。
ユニフォーム 第二弾
1992- 2024
1992 年にユニフォームはフルモデルチェンジした。一新した背景は社史や社内「きづき」に記録はなく、当時在籍していた元社員や社員にもヒアリングを行ったが、はっきりとしたことは分からなかった。このユニフォームを着用した期間は32年と長く、社員のみならず、現場の職人さんたちにも、木内建設といえばこのユニフォームというイメージがついたと思われる。
長い間、全く変わっていないように見えたかもしれないが、実は通気性のよい素材へ変更したり、サイズ展開するなど改良が行われていた。
ユニフォーム 第三弾
2024 –
2024年11月に全面リニューアルした。
リニューアルのきっかけは、従業員がより心地よく、快適に働くためのアイデアを募集する社内イベント『KIUCHI-JIKAN DESIGN CONTEST』で「スタイル変革・ブランディング・モチベーションアップ」を目的に提案されたユニフォーム一新案が特別賞を受賞したことから始まった。
リニューアルに際しては、施工部門を中心にプロジェクトチームを立ち上げ、従業員アンケートより見えてきた現行の課題・改善点を克服し、より快適で働きやすく、従業員のニーズに合った機能等を盛り込んだ複数のデザイン案を作成し、従業員投票により新しいデザインを最終決定した。
プロジェクト立ち上げより約1年、時代に合ったデザイン、より快適で機能性に優れたオリジナルユニフォームが完成した。
